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多摩中心に活動する管理人の撮影ブログ。(since 2007.4.1) 2020年からは西日本に移動。
午前中用事を済ませて午後から出雲へ。

サンライズ出雲
出雲市→直江

上手い具合に雲が光量を下げてくれた。
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梅雨も開けたのでちょっくら撮影に。


方谷→井倉

サンライズを俯瞰で。霞がかっている上に微妙な晴れ間。
紅葉の時期にまた来たい。

井倉駅を通過したあとまでカメラを振って追っかける。

井倉→石蟹


井倉→方谷

井倉駅で交換待ちの普通列車は湘南色。
この後日本海側まで移動。


来待→宍道


直江→出雲市

手前の橋のインパクトに列車がちょい負け?
最後は川べりまで移動。

出雲市→西出雲


西出雲→出雲市

キハ120通過時が一番空模様がきれいだったかな。


俯瞰撮影楽しいんだけど、この時期は虫、特に雀蜂が怖すぎて及び腰。
ブンブン聞こえるだけで超ビビる。井倉怖い。
冬になれば草も枯れて歩きやすいし虫いないので冬が好き。

以上
中1日で再び伯備線へ。


木野山→備中川面


同上


方谷→井倉

ロケハンがてら色々と回ってみて、駐車スペースや焦点距離とか色々見てました。
俯瞰ポイントもいくつか回ってみてサンライズ撮れそうな場所や季節で面白そうな場所もあったのでいずれトライします。
早速車で写真を撮りに行きました。
サンライズを撮ろうかなと思ってましたが浜松町の人身事故で遅延。
とりあえず方谷〜井倉の間をウロウロ。



はじめはここでサンライズを撮ろうと思っていましたが、遅延していたので場所を変更。
霧が凄かったのでよりそれが目立つような場所の方が良いなということで
来る途中にここ撮れそう…と思ってた場所へ。


伯備線の雰囲気が中央西線(そんな回数撮ってないけど)ぽくてすごく良い。
単線と複線が入り交じるとか国道と川と並走するとか切り立った崖があって平地が少ないとか。
列車で見ても64-1000、381、115とか中央西線で走ってる(た)車両ばかり。
実際に行ってみて通いたくなる要素がいくつもあったので、今後も伯備線は撮りに行きます。

一方で山陽本線はコレだという意欲の湧くポイントがまだ見つかってません。。
先日一瞬東京に滞在し、サンライズを使って帰りました。
んでそのまま出勤。
今後コロナがどうなるかというのもありますが、今年度にサンライズ出勤でシングルをコンプリートしたいなと。

帰り際に東京駅に送り込みされたサンライズをスナップ。
サンライズ 東京駅
東京

車も手に入ったのでマイペースで写真撮りに行きます。
今回は国分寺線恋ヶ窪、鷹の台、両駅について見ていく。

まずは恋ヶ窪駅の歴史から。Wikipediaより。
1955.02.10 西武鉄道国分寺線、恋ヶ窪駅開業
1968.11.12 恋ヶ窪駅-羽根沢(信)間複線化
1986.10.20 恋ヶ窪駅跨線橋使用開始


1947.11.14
画面中央を北西から南東に走る線が川越線(現国分寺線)である。
まだ恋ヶ窪駅は無く、付近は畑ばかり。


1956.3.10
恋ヶ窪駅が開業。当初は1面1線であったことが確認できる。


1961.9.5
1956年から大きな変化は無く、1面1線の恋ヶ窪駅が確認できる。


1966.11.3
恋ヶ窪駅が2面2線となった。
Wikipediaに記述は無かったが、恋ヶ窪駅は初め1面1線で開業し、1960年代前半に2面2線になったことが航空写真からわかった。
北西側、鷹の台駅方面の分岐は線路西側の建物が畑に変わるあたり、
南東側、国分寺駅方面の分岐は道路を渡った直後に確認できる。
ホーム長に対してかなり長い有効長を取っている。
これは国分寺駅-小川駅間で運行されていたブリヂストン東京工場への貨物列車との交換するためだろうか。


1971.4.25
恋ヶ窪駅北側に跨線橋が建設された。
1968年の羽根沢(信)開業に伴い、恋ヶ窪駅から南は複線となった。
また1973年の武蔵野線開業に向けて工事している様子が確認できる。
国分寺線が武蔵野線を跨ぐ部分は嵩上げ工事が進行中であり、南側に仮の複線が見える。


1974.12.26
恋ヶ窪駅に4両編成の国分寺行き列車が入線している様子が確認できる。
駅南側の道路を渡った直後に分岐が見える。羽根沢(信)開業前の単線時代の名残か。
武蔵野線が開業し、その部分の仮線が完全に撤去された。


1984.10.26
恋ヶ窪駅南側の分岐が撤去された。


1989.10.18
恋ヶ窪駅構内に跨線橋が設置されると同時に新駅舎となった。
またホーム長が延長されて6両編成対応となった。
これらもWikipediaには書かれていないが、恐らく同時に改修されたと考えられる。


2008.5.6
1989年から大きな変化は見られない。

続いて鷹の台駅の歴史。Wikipediaより。
1948.10.21 西武鉄道川越線、鷹の台駅開業
1948.11.05 国分寺駅-東村山駅間直流1500 V 電化
1952.03.25 川越線から国分寺線に改称
1961.10.xx 鷹の台駅に交換設備を設置
1982.02.01 鷹の台駅構内踏切廃止
1985.03.12 鷹の台駅新駅舎竣工


1944.11.7
南北に走るのが川越線(現国分寺線)である。
鷹の台駅周辺は林と畑がほとんどである。


1947.7.24
写真中央を横切る玉川上水の北側、現鷹の台駅周辺の林が伐採され開発が始まった。
また玉川上水南側の線路西側に、四角い建造物とそれに付随した側線を引くためのスペースが設けられた。
『鷹の台団地50年』(「鷹の台団地50周年記念文化事業」製作実行委員会、2014年)によると、この位置に糞尿輸送用貯留槽が建設されたが、実際には使用されなかったとのこと。
東小平駅や小川駅等で行われていた糞尿輸送の見通しが良ければここも使用されていたのだろう。
確かに北側に分岐を設けるようにスペースが取られており、井荻から東村山を経てここまで運ぶ予定だったことが伺える。


1956.3.10
鷹の台駅が開業した。ホームは西側で1面1線である。
南側の糞尿輸送用貯留槽は解体された。


1961.9.5
鷹の台駅が2面2線となった。(まだ使用前)
南側の糞尿輸送用スペースはまだ跡地が見える。


1966.11.3
2面2線の鷹の台駅ホーム北側に構内踏切が見える。
南側の糞尿輸送用跡地が完全に消滅した。


1971.4.25
構内踏切への接続する道の形状が変わったように見える。
画質が悪いので断定はできないが、
1979年と1966年で比較すると駅舎の屋根の形状も異なるように見えることから、
1966年から1971年の間に駅舎が改築された可能性がある。


1979.12.9
1971年から大きな変化は見られない。


1984.10.26
鷹の台駅の西側ホーム南端が少し延長された。
また地下道が設けられ、構内踏切が消滅した。


1992.10.10
鷹の台駅ホームが北側へ延長され、北側の分岐も移動した。
また駅舎の建て替えが確認できる。


2008.9.9
1992年から大きな変化は見られない。

以上、航空写真は国土地理院ウェブサイトを出典とし、加工して作成した。

これにて航空写真編は終了。
GWを航空写真の経年変化の観察に充てたことで、ほぼStay Homeで乗り切れた。

さて、そろそろ小平出るか決まりそう。
今回は小川駅を中心に変遷を見ていく。
拝島線の成立も合わせて見たいので萩山駅の変遷も一部加える。

小川駅の歴史。Wikipediaおよび東大和市の鉄道小歴史 拝島線より。
1894.12.21 川越鉄道国分寺駅-久米川(仮)駅間開業に伴い小川駅開業
1942.xx.xx 陸軍兵器補給廠小平分廠開設に伴い引込線を敷設
1944.05.01 小川駅-日立航空機立川工場間の専用線開通
1944.09.10 東京都の要請により糞尿輸送の貯留駅に指定され、側線と貯留槽を設置して貨物営業開始
1950.05.15 上水線小川駅-玉川上水駅間開業
1951.xx.xx 糞尿輸送休止
1953.03.31 糞尿輸送廃止
1960    陸軍兵器補給廠小平分廠跡地にブリヂストン東京工場竣工(引込線は再利用)
1962.09.01 上水線小川駅-萩山駅間開業
1964.07.19 橋上駅舎使用開始
1979.12.07 小川駅-萩山駅間複線化
1981.03.31 貨物営業廃止
1991.03.29 小川駅-西小川(信)間複線化
2009.04.25 小川駅-萩山駅間高架化に伴う仮線移動開始
2012.12.07 小川駅-萩山駅間高架化完了


1936.6.11
写真中央西側が小川駅。写真右上に多摩湖鉄道も確認できる。


1941.6.25
1枚のフィルムに収まった写真が無いので2分割。いずれも左側が小川駅。
まだ上水線(拝島線)が開通していない。
駅本屋は西側に位置。
東側に側線が見えるが、2面2線なのか1面1線に貨物側線があるのかどうかは確認できない。


1947.11.14 / 1948.3.29
1941年とは小川駅とその周辺の様子が大きく変わった。
小川駅構内には側線が大幅に増え、多数の貨車が留置されている。
小川駅にも糞尿輸送の貯留槽が設置された。
東小平駅の記事での考察より、恐らく小川駅北西の白い建造物が貯留槽と考えられる。
1947年11月の航空写真では、貯留槽の横に貨車2両が留置されている。
また小川駅北東へ陸軍兵器補給廠への引込線が伸びている。
補給廠構内には荷役ホームも確認できる。
小川駅南西への分岐(日立航空機立川工場への専用線)も見える。

Wikipedia「鉄道による糞尿輸送」の項では、小川駅の輸送に際して糞尿を載せた貨車と客車の客貨混載列車が運行されていたとのこと。
しかも小川駅で列車衝突により貨車が破損して糞尿が飛び散る事故があったようだ。


1956.3.10
2面4線(おそらく)に加えて多くの側線が確認できる。
糞尿の貯留槽は無くなった。
上水線の玉川上水方面は1950年に営業開始しており、駅本屋側に0番線のような形で行き止まりの線路とホームが追加されているように見える。

陸軍兵器補給廠は使命を終えているが、引込線はそのまま放置されている。
引込線のカーブのあたりに貨車が留置されているように見えることから、留置線として使用されていたのかもしれない。


1961.9.5
1956年から駅のホームや線路に大きな変化は見られない。
陸軍兵器補給廠小平分廠跡地にブリヂストン東京工場が竣工し、引込線が引かれた。
1962年の小川駅-萩山駅間開業に向けて、そのルートの木々が伐採されているのが確認できる。


1974.12.26
小川駅が橋上駅舎化し、配線が整理されて現在に近づいた。
小川駅-萩山駅間が単線で接続された。


1979.12.9
小川駅-萩山駅間が複線化された。
複線化は1979.12.7なので、複線化直後の航空写真である。
ブリジストンへの引込線は、1974年時点では府中街道の踏切から2個目の架線柱の位置にあったが、1979年の複線化後は踏切寄りに移動した。
1981年3月には貨物営業が終了するので、複線化後の貨物輸送は1年と少しだけである。
小川駅の貨物側線は東側にあり、かつ複線区間に渡り線が見られないので、ブリジストン構内へ向かう際には拝島線下り線を逆走していたと考えられる。
また、写真右上に新たに萩山電留線が建設された。
萩山・小平駅の記事で述べたように、1974年から1986年にかけて萩山駅南東にあった車庫が無くなっており、こちらに移転したと考えられる。


1984.10.26
1981年に貨物営業が終了し、ブリジストンへの引込線が撤去された。
一方で小川駅の側線には貨車が見える。工事臨時列車だろうか。


1992.10.10
小川駅東側に2本あった側線が1本なくなった。
また小川駅南西の拝島方面の線路が複線化された。
線路周辺の建物の増減を見るに、拝島線上り線が新たに敷設されたと考えられる。


2008.5.6
1992年から大きな変化は見られない。

写真は航空写真は国土地理院ウェブサイトを出典とし、加工して作成した。
国分寺から多摩湖線を経て小平の変遷まで見てきたが、
今回は少し新宿線へはみ出し、東小平駅の変遷を見ていく。

まずは東小平駅の歴史から。WIkipediaより。

1940.04.23 旧西武鉄道村山線の小平駅と花小金井駅の間に開業
1944.09.10 東京都の要請により糞尿輸送の貯留駅に指定され、側線と貯留槽を設置して貨物営業開始
1951.xx.xx 糞尿輸送休止
1953.03.31 糞尿輸送廃止に伴い貨物営業廃止
1954.10.10 小平駅に統合して廃止

15年ほどの歴史しかない東小平駅だが、現在でもその痕跡は残っている。
現在は撮影地としても有名な昭和病院前のS字カーブ付近に存在した。


1941.6.25
まだ糞尿輸送を開始する前の東小平駅。
2面2線のホームが確認できる。


1944.10.22
1941年から大きな変化は見られない。
既に糞尿輸送は開始しているはずだが、画質が悪く貨物側線の位置はわからない。
Wikipediaによると、設備やダイヤの調整が間に合わず本輸送は11月21日にずれ込んだとあることから、
1947年の航空写真から位置を逆算すると設備の建設が間に合っていない可能性もあると考えられる。


1947.10.24
貨物側線がよく確認できる。
同様に糞尿輸送の貯留槽があった駅として、東村山駅がある。
東村山市史研究第22号(東村山市、2013年)によれば、東村山駅では糞尿輸送廃止後、跡地に西武鉄道の社宅を建設した。
1947年の航空写真を見ると、その社宅の位置には確かに白い長方形のプールのような建造物が確認できた。
以上より、東小平駅の貨物側線南東、道路に面した白い長方形の建造物が糞尿の貯留槽と推測する。


1947.11.14
3週間程度ではやはり変化はない。日の関係でよく見える。


1956.4.13
画質が悪く判断が難しいが、側線スペースはそのままに貯留槽関連の建造物がなくなったように見える。
東小平駅ホームはまだそのままか。


1961.9.5
駅ホームが撤去され、空き地となった。
貨物側線も完全に撤去され、建物が建った。


1974.12.26
ホーム跡地は空き地のままに、周囲に建物が建った。
貨物側線跡地は工場となった。


1979.10.8
1974年から大きな変化は見られない。


1984.10.26
1979年から大きな変化は見られない。


1992.10.10
1984年から大きな変化は見られない。


2008.5.6
貨物側線跡地の工場がなくなり、墓地となった。
東小平駅跡地は上下線とも空き地のままである。

東小平駅跡地は今も空き地のまま、西武鉄道が所有している模様。
貨物側線跡地は墓地の駐車場および公園へ転用された。
東村山駅とは異なり、糞尿貯留槽跡地は住宅には転用されなかったようだ。
数十年も経てば糞尿など誰も気にしないか。

航空写真は国土地理院ウェブサイトを出典とし、加工して作成した。
今回は萩山駅と小平駅の変遷を見ていく。
またしてもとても長くなってしまった。

まずは両駅の歴史から。Wikipediaおよび市史編さんこぼれ話より。

1927.04.16 旧西武鉄道村山線高田馬場(仮)駅-東村山駅間開業に伴い小平駅開業
1928.04.06 多摩湖鉄道の終着駅として萩山駅開業
1928.11.02 多摩湖鉄道萩山駅-小平駅間開業
1929.04.16 多摩湖鉄道小平駅を本小平駅へ改称。
1930.01.23 多摩湖鉄道萩山駅-村山貯水池駅間開業
(いつデルタ線になったのかは不明)
1945.09.22 多摩湖線を経営する武蔵野鉄道が村山線を経営する旧西武鉄道を吸収合併
1949.11.15 本小平駅が小平駅に統合
1955.03.18 萩山駅-小平駅間直流1500 V に昇圧
1958.09.16 萩山駅を多摩湖駅方面へ300 m 移転
1961.09.21 国分寺駅-萩山駅間直流1500 V に昇圧
1962.09.01 萩山駅-小川駅間開業に伴い萩山駅-小平駅間が上水線に編入
1967.11.07 萩山駅-小平駅間複線化



1941.06.25
写真西側の萩山駅から見ていく。
南から来た線路はY字に分かれ、北西方向と北東方向へ伸びている。
北西方向と北東方向の線路同士も接続されており、デルタ線が形成されている。
デルタ線の中央には北西方向からの引き込み線が存在し、車庫となっている様子。
市史編さんこぼれ話によれば、Y字に分かれた直後に台形のだだっ広いホームがあるとのことなので、
デルタ線の内側にホームがあると考えられる。
北東方向へ伸びた線路はすぐに村山線の線路と並走し、交わらないまま行き止まりとなっている。
これが本小平駅で、道路を挟んで村山線の小平駅が確認できる。


1944.06.25
画質が悪く見えにくいが、1941年から大きな変化は見られない。


1947.11.14
萩山駅には、多摩湖方面に2面2線の対向式ホーム、本小平方面に1面1線のホームが見える。
市史編さんこぼれ話にあるような台形のホームがデルタ線内側にあるかどうかは確認できない。
会社は合併し、村山線、多摩湖線ともに西武鉄道となったものの、
小平駅は本小平と小平で分かれたままである。


1948.3.29
植物の葉が落ちたせいか線路など見やすい。1947年から大きな変化は見られない。


1956.4.13
萩山駅のデルタ線内側のホームが台形のように見える。
またホーム構造は変わらないものの、国分寺と小平を結ぶ東側の線路のY字分岐が消滅したように見える。
1955年に萩山駅-小平駅間が直流1500 V に昇圧したためか。
小平駅は新宿線と統合され、本小平駅が消滅した。
多摩湖線用ホームは道路を渡ったすぐに設置され、新宿線と駅構内で接続された。


1961.9.5
萩山駅が北西300 m 先、現在の位置に移設された。
国分寺駅と小平駅を結んでいた東側の線路は完全に撤去された。
旧萩山駅の西側ホームは撤去されたが、東側の台形ホームは健在。
デルタ線に囲まれていた車庫も健在。
小平駅は、多摩湖線ホームが長くなった。


1974.12.26
旧萩山駅跡地は建造物が建った。デルタ線を形成していた東側の線路跡地は道路になった。
また、萩山駅-小平駅間が複線化している。
一方で車庫は健在。
小平駅は橋上駅舎に生まれ変わった。


1984.10.26
旧萩山駅跡地は1974年同様建物が建っている。車庫が消滅した。
小平駅は1974年のまま。


1989.11.3
1984年から大きな変化は見られない。


1992.10.10
1989年から大きな変化は見られない。
旧萩山駅付近にちょうど4両編成の列車が走行中であることが確認できる。


2008.5.21
旧萩山駅跡地付近に線路が敷設された。
現萩山駅の北側の線路(拝島線上り)から多摩湖線国分寺駅方面へ連絡するための線路が新たに敷設された。
現在旧萩山駅跡地は萩山保線区となっている。

以上、写真は航空写真は国土地理院ウェブサイトを出典とし、加工して作成した。


★多摩湖鉄道と旧西武鉄道村山線の因縁
1928年、小平周辺の開発を目論んだ箱根土地株式会社が多摩湖鉄道を開通させた。
村山線の開通は1927年とほぼ同時期であり、当然敷設にあたり双方のすり合わせがあった。
市史編さんこぼれ話によれば、旧西武鉄道は自身が保有していた吉祥寺駅-箱根ヶ崎駅間(村山軽便鉄道)の敷設免許を理由に、それを跨ぐ多摩湖鉄道の敷設を渋った。
この後鉄道省の調整により、多摩湖鉄道は国分寺駅-萩山駅間に無事工事認可申請書を提出することになり、萩山駅で村山線と接続を図った。
この萩山駅は、1941年の航空写真の中の横に走る一直線の道(多摩湖から境浄水場に走る水道管の道、現多摩湖自転車道)のやや北側に設置される予定だった。
しかし、旧西武鉄道は村山線のルートを北方へずらし、多摩湖鉄道を避けた。
村山線が小平駅を出た直後に右へカーブしているが、恐らくカーブせずに直進したときの交点が萩山駅だったのだろう。
多摩湖鉄道は萩山での接続を諦め、当初の目的地である多摩湖へ向かいやすいように、
やや南側、江戸街道(デルタ線の内側を左右に横切る道)を渡る前の地点を萩山駅とし、そこから分岐して小平駅での村山線との接続を図った。
しかし小平駅の協議についても多摩湖鉄道と旧西武鉄道は衝突した。
その結果駅は別々となり、道路と踏切を跨いだ位置にそれぞれの出入り口が設置された。
1941年の航空写真からは、鉄道敷設の際の旧西武鉄道が多摩湖鉄道をどう見ていたのかがよく伝わってくる。

★多摩湖鉄道敷設時に力を見せつけた旧西武鉄道が多摩湖線を保有する武蔵野鉄道に陥落
1915年に武蔵野鉄道(現西武池袋線)が全線開通したが、
多摩地域の沿線開発に目を付けた箱根土地株式会社は1924年に大泉学園を開発、駅の提供を行い、1925年に武蔵野鉄道の株式を取得するなど、
箱根土地株式会社、武蔵野鉄道の両社は少なからず関係を持っていた。
村山線の開通はその直後、1927年である。
高田馬場から東村山まで線路を引いたことで、もともと保有していた川越線へ直通運転を開始し、現在の運行体型(国分寺線と新宿線)が確立した。
川越、所沢、高田馬場を直通させた旧西武鉄道は、飯能、所沢、池袋を結ぶ武蔵野鉄道と所沢駅で乗客の奪い合いを繰り広げた。
旧西武鉄道の駅員が武蔵野鉄道の車掌を殴ったり、武蔵野鉄道の幹部が駅員を連れて旧西武鉄道所沢駅へ殴り込んで運行業務を乗っ取ろうとしたり、かなり激しい争いが記録に残っている。

ただし、村山線開業当初の所沢駅の管轄は川越鉄道を引き継いだ旧西武鉄道が担っていた。
多摩湖鉄道敷設のエピソードにもあるように、力関係は完全に旧西武鉄道>武蔵野鉄道・多摩湖鉄道であった。

また、武蔵野鉄道は事業力の無さから1920年代から粉飾決算をするほど経営が厳しく、世界恐慌も相まって最終的に経営が破綻することとなった。
ここで経営再建を担ったのが箱根土地株式会社である。
1932年には筆頭株主となり経営権を奪うと、これまで武蔵野鉄道が手薄だった沿線開発や徹底的な債務整理に取り組んだ。
更に多摩地域は軍需工場の設置も増加するなど、周辺環境が好転したことで一気に業績は回復した。
箱根土地株式会社の元で急激に立て直した武蔵野鉄道は、1940年に多摩湖鉄道を吸収合併した。

そのような中でも旧西武鉄道と武蔵野鉄道はやはり犬猿の仲であった。
1940年の武蔵野鉄道列車衝突事故では、旧西武鉄道の駅職員が意図的に信号を操作し、運行を妨害したのではないかという憶測が流れるほどだった。
10年やそこらで人間は変わらない。

しかし箱根土地株式会社をバックに据えた武蔵野鉄道は力を増し、両社の力関係は10年でガラッと変わった。
1943年には旧西武鉄道の経営権を箱根土地株式会社が取得し、
戦後には多摩湖鉄道を吸収合併した武蔵野鉄道が、村山線を保有する旧西武鉄道を吸収合併した。

現西武鉄道、名前には「西武」を冠しているが、ホームページの歴史・沿革を見ると、
武蔵野鉄道設立の1912年を始まりとしている。
川越鉄道開通には触れられておらず、物事は武蔵野鉄道の視点から描かれていることからも、その立場は明らかである。


以下を参考とした。
・西武鉄道の成立 武蔵野の大地に王国を築いた堤康次郎
https://maonline.jp/articles/seibu_tsutsumi
https://maonline.jp/articles/seibu_tsutsumi_2
・1930年代における武蔵野鉄道の債務整理問題, 神山恒雄, 明治学院大学経済研究, 157, 19-42 (2019)
続いて一橋大学駅から厚生村駅にかけて。
この区間は数百mおきに駅が存在しており、更には統廃合も絡んでいる。
航空写真で見るとその変化は大きくわかりやすい。

書きたいことが多すぎるのでとても長くなってしまった。

まずは各駅の歴史。Wikipediaより。

一橋大学(一橋学園)駅
1933.09.11 多摩湖鉄道商大予科前駅として開業
1949.05.xx 駅名を一橋大学駅へ改称
1966.07.01 小平学園駅と統合し廃止(書類上は一橋学園駅への移転・改称)
1966.07.01 一橋大学駅北側へ200 m 程の位置に一橋学園駅開業

小平学園駅
1928.04.06 多摩湖鉄道小平学園駅として開業
1966.07.01 小平学園駅南側へ100 m 程の位置に一橋学園駅開業。これに伴い廃止

厚生村駅
1939.01.xx 多摩湖鉄道厚生村駅として開業
1945.02.03 休止
1953.01.15 営業再開することなく廃止


1941.6.25
画質が悪い上に角度のついた撮影。
商大予科前駅は大学への道路のお陰でわかりやすいが、小平学園、厚生村はよくわからず。


1944.10.22
画質が悪くよくわからず。
1947年の写真を見てから1944年の写真を見返すと、小平学園駅、厚生村駅の建造物がわかりやすいので、説明は割愛する。


1947.11.14
詳細がよく分かるので詳しく説明する。まずは商大予科前駅から。
2面2線の商大予科前駅。道路に面した駅本屋から大学への一本道が伸びる。
北へ向かうと左カーブの途中に1面1線の小平学園駅が確認できる。
ホームは線路東側に位置し、ホームの南東に三角形の駅前スペースも確認できる。
更に北へ向かうと右カーブの直前に1面1線の厚生村駅が確認できる。
ホームは線路西側に位置している。


★厚生村駅の所在について
複数のホームページにおいて、S字カーブの終わった後(現小平市立中央図書館横)を駅跡と推測していたり、資料が存在しないと書かれていたりするが、それは誤りであることがわかった。
上述した厚生村駅の位置は『大正昭和 東京周辺一万分の一 地形図集成』(柏書房)の中の1939年小平学園にて確認できた位置と一致している。
1951年の地図(『地図で見る多摩の変遷』(財団法人日本地図センター))を見ると、休止中の東国分寺駅、桜堤駅が掲載されているにも関わらず、厚生村駅のみ記載がない。
このように、現在に残る厚生村駅の資料は東国分寺駅や桜堤駅と比べて少ないため、誤解が起こったと考えられる。


★厚生村駅の影の薄さについて
東国分寺駅や桜堤駅は営業期間が長く、住民のエピソードや資料も存在した。
一方厚生村駅は営業期間わずか6年ととても短い上、1941年の航空写真を見るに周囲は畑ばかりである。
このような東国分寺駅や桜堤駅と大きく異なる周辺環境ゆえ、そもそも地域住民の記憶にも薄いと考えられる。

ならそもそも何故そんな駅を設置したのか、という点について考察する。

厚生村駅の名前の由来は”国分寺厚生の家”である。
”国分寺厚生の家”の概要については『小平市史』に詳しく書かれている。

1938年頃、碁盤の目状に整備された小平学園のうち多摩湖鉄道の線路西側の地区について、”国分寺厚生の家”と銘打って建物付きの分譲が行われた。
ただしこれは単純な家ではなく、「週末に農作業を楽しむ家庭菜園付きの小屋」だったと小平市史は論じている。

1938年といえば国家総動員法が制定されるなど、世の中は戦争へ舵を切ろうとしている。
そのような中、今で言う別荘が分譲されるところにも歴史の複雑さが垣間見える。
この年、総戦力体制の構築を目指し、「国民の健康や体力増進政策、衛生や医療政策、人口政策、労働政策といった戦時社会政策を担当する官庁」として厚生省が設けられた。
また同時期、「余暇活動の充実と健全娯楽の推進をはかることで国民を統合し、生産力を向上させようとする厚生運動」が広まった。
要するに、この時期の”厚生”とは「戦争の遂行に役立つような国民体力の向上や健全な余暇活動を意味」している。
「戦時における国策と商業主義の狭間で、郊外の位置づけやそこでの生活の意味付けが微妙に変化を遂げていることを見てとれる。それは戦時開発とはいえないが、平時の郊外住宅地開発としての学園開発が、総力戦体制に順応するなかで変形を遂げたものだ」と小平市史は論じている。

表向きは戦争に協力していますよ!という体で小平学園都市開発を継続し、商売を続けていたということだろうか。

厚生村駅の名前の由来を踏まえ、何故厚生村駅を設置したか、という本題に戻る。
ここで大事なのは、厚生村駅を開業した多摩湖鉄道は箱根土地株式会社が運営しており、小平学園都市を築き上げたのもまた箱根土地株式会社ということだ。

つまり、厚生村駅は小平学園の宅地開発の促進という明確な意図をもって開設されたと考えられる。
1941年の地図を見ても明らかなように、住民が居るから設置されたわけではない。”厚生の家”の住民を誘致するために設置されたと考えられる。
恐らく戦争のために別荘の分譲は不良、戦争の激化によって休止、”厚生”が時代遅れとなった終戦後には数100 m 先に小平学園駅があるため、再開されずにそのまま廃止となったと考えられる。

このような経緯だからこそ、厚生村駅はひっそりと消え、地域住民からもすぐに忘れ去られたことだろう。


★厚生村駅を記載していた地図の与太話
ちなみに厚生村駅が掲載されていた『大正昭和 東京周辺一万分の一 地形図集成』(柏書房)の中の1939年小平学園には東国分寺駅も掲載されているが、横切る道路の南側(移転前の位置)に描かれている。
一方で実際の位置である横切る道路の北側(移転後の位置)には、交換設備(線路の分岐)とそれに合わせた側道の膨らみが描かれている。
1936年に東国分寺駅は既に北側へ移動していたから、これは誤植であると考えられる。
わざわざ線路の分岐を描いた上で駅の位置を修正し忘れるというのは、何とも不可解なミスである。

さて、航空写真に戻る。

1956.4.13
商大予科前駅は一橋大学駅に改称されたが、様子に変化は見られない。
小平学園駅にも変化は見られない。
厚生村駅は廃止に伴い、ホームが撤去された。


1961.9.5
一橋大学駅、小平学園駅ともに変化は見られない。
厚生村駅は跡形もなくなった。


1964.5.7
画質が悪く見づらいが、一橋大学駅、小平学園駅ともに変化は見られない。


1966.11.3
一橋大学駅と小平学園駅との間に一橋学園駅が開設された。
一橋学園駅の南に2両編成の列車が確認できる。
一橋学園駅の北側ポイントはちょうど小平学園駅ホーム横に位置し、
南側ポイントは一橋大学駅構内に位置している。


1968.5.9
一橋大学駅の駅舎跡地が空き地となった。
小平学園駅も同様に取り壊され、三角形の空き地となった。


1971.4.25
一橋大学駅跡地に建物が建ち並び始めた。
小平学園駅跡地にも建物が建った。


1975.1.20
一橋大学駅、小平学園駅跡地は建物で埋まった。
一橋大学駅構内の北側のポイントは安全側線として再利用されていることが確認できる。
一橋大学駅構内の東側の線路はそのまま残されている。


1979.12.9
1975年から大きな変化は見られない。


1984.10.26
1979年から大きな変化は見られない。


1989.10.18
1984年から大きな変化は見られない。


1992.10.10
1989年から大きな変化は見られない。


2001.11.14
1992年から大きな変化は見られない。
ホームの屋根が南北に延長された。(白く見える部分)


2008.5.21
2001年から大きな変化は見られない。


現在でも旧一橋大学駅付近には側線が残されており、
一橋大学へ続く道路は特徴的な形のままである。
小平学園駅、厚生村駅については跡形もなく消えてしまった。

航空写真は国土地理院ウェブサイトを出典とし、加工して作成した。

次回は変化の少ない青梅街道駅を飛ばし、萩山駅、小平駅を見ていく。
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