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多摩中心に活動する管理人の撮影ブログ。(since 2007.4.1) 2020年からは西日本に移動。
続いて一橋大学駅から厚生村駅にかけて。
この区間は数百mおきに駅が存在しており、更には統廃合も絡んでいる。
航空写真で見るとその変化は大きくわかりやすい。

書きたいことが多すぎるのでとても長くなってしまった。

まずは各駅の歴史。Wikipediaより。

一橋大学(一橋学園)駅
1933.09.11 多摩湖鉄道商大予科前駅として開業
1949.05.xx 駅名を一橋大学駅へ改称
1966.07.01 小平学園駅と統合し廃止(書類上は一橋学園駅への移転・改称)
1966.07.01 一橋大学駅北側へ200 m 程の位置に一橋学園駅開業

小平学園駅
1928.04.06 多摩湖鉄道小平学園駅として開業
1966.07.01 小平学園駅南側へ100 m 程の位置に一橋学園駅開業。これに伴い廃止

厚生村駅
1939.01.xx 多摩湖鉄道厚生村駅として開業
1945.02.03 休止
1953.01.15 営業再開することなく廃止


1941.6.25
画質が悪い上に角度のついた撮影。
商大予科前駅は大学への道路のお陰でわかりやすいが、小平学園、厚生村はよくわからず。


1944.10.22
画質が悪くよくわからず。
1947年の写真を見てから1944年の写真を見返すと、小平学園駅、厚生村駅の建造物がわかりやすいので、説明は割愛する。


1947.11.14
詳細がよく分かるので詳しく説明する。まずは商大予科前駅から。
2面2線の商大予科前駅。道路に面した駅本屋から大学への一本道が伸びる。
北へ向かうと左カーブの途中に1面1線の小平学園駅が確認できる。
ホームは線路東側に位置し、ホームの南東に三角形の駅前スペースも確認できる。
更に北へ向かうと右カーブの直前に1面1線の厚生村駅が確認できる。
ホームは線路西側に位置している。


★厚生村駅の所在について
複数のホームページにおいて、S字カーブの終わった後(現小平市立中央図書館横)を駅跡と推測していたり、資料が存在しないと書かれていたりするが、それは誤りであることがわかった。
上述した厚生村駅の位置は『大正昭和 東京周辺一万分の一 地形図集成』(柏書房)の中の1939年小平学園にて確認できた位置と一致している。
1951年の地図(『地図で見る多摩の変遷』(財団法人日本地図センター))を見ると、休止中の東国分寺駅、桜堤駅が掲載されているにも関わらず、厚生村駅のみ記載がない。
このように、現在に残る厚生村駅の資料は東国分寺駅や桜堤駅と比べて少ないため、誤解が起こったと考えられる。


★厚生村駅の影の薄さについて
東国分寺駅や桜堤駅は営業期間が長く、住民のエピソードや資料も存在した。
一方厚生村駅は営業期間わずか6年ととても短い上、1941年の航空写真を見るに周囲は畑ばかりである。
このような東国分寺駅や桜堤駅と大きく異なる周辺環境ゆえ、そもそも地域住民の記憶にも薄いと考えられる。

ならそもそも何故そんな駅を設置したのか、という点について考察する。

厚生村駅の名前の由来は”国分寺厚生の家”である。
”国分寺厚生の家”の概要については『小平市史』に詳しく書かれている。

1938年頃、碁盤の目状に整備された小平学園のうち多摩湖鉄道の線路西側の地区について、”国分寺厚生の家”と銘打って建物付きの分譲が行われた。
ただしこれは単純な家ではなく、「週末に農作業を楽しむ家庭菜園付きの小屋」だったと小平市史は論じている。

1938年といえば国家総動員法が制定されるなど、世の中は戦争へ舵を切ろうとしている。
そのような中、今で言う別荘が分譲されるところにも歴史の複雑さが垣間見える。
この年、総戦力体制の構築を目指し、「国民の健康や体力増進政策、衛生や医療政策、人口政策、労働政策といった戦時社会政策を担当する官庁」として厚生省が設けられた。
また同時期、「余暇活動の充実と健全娯楽の推進をはかることで国民を統合し、生産力を向上させようとする厚生運動」が広まった。
要するに、この時期の”厚生”とは「戦争の遂行に役立つような国民体力の向上や健全な余暇活動を意味」している。
「戦時における国策と商業主義の狭間で、郊外の位置づけやそこでの生活の意味付けが微妙に変化を遂げていることを見てとれる。それは戦時開発とはいえないが、平時の郊外住宅地開発としての学園開発が、総力戦体制に順応するなかで変形を遂げたものだ」と小平市史は論じている。

表向きは戦争に協力していますよ!という体で小平学園都市開発を継続し、商売を続けていたということだろうか。

厚生村駅の名前の由来を踏まえ、何故厚生村駅を設置したか、という本題に戻る。
ここで大事なのは、厚生村駅を開業した多摩湖鉄道は箱根土地株式会社が運営しており、小平学園都市を築き上げたのもまた箱根土地株式会社ということだ。

つまり、厚生村駅は小平学園の宅地開発の促進という明確な意図をもって開設されたと考えられる。
1941年の地図を見ても明らかなように、住民が居るから設置されたわけではない。”厚生の家”の住民を誘致するために設置されたと考えられる。
恐らく戦争のために別荘の分譲は不良、戦争の激化によって休止、”厚生”が時代遅れとなった終戦後には数100 m 先に小平学園駅があるため、再開されずにそのまま廃止となったと考えられる。

このような経緯だからこそ、厚生村駅はひっそりと消え、地域住民からもすぐに忘れ去られたことだろう。


★厚生村駅を記載していた地図の与太話
ちなみに厚生村駅が掲載されていた『大正昭和 東京周辺一万分の一 地形図集成』(柏書房)の中の1939年小平学園には東国分寺駅も掲載されているが、横切る道路の南側(移転前の位置)に描かれている。
一方で実際の位置である横切る道路の北側(移転後の位置)には、交換設備(線路の分岐)とそれに合わせた側道の膨らみが描かれている。
1936年に東国分寺駅は既に北側へ移動していたから、これは誤植であると考えられる。
わざわざ線路の分岐を描いた上で駅の位置を修正し忘れるというのは、何とも不可解なミスである。

さて、航空写真に戻る。

1956.4.13
商大予科前駅は一橋大学駅に改称されたが、様子に変化は見られない。
小平学園駅にも変化は見られない。
厚生村駅は廃止に伴い、ホームが撤去された。


1961.9.5
一橋大学駅、小平学園駅ともに変化は見られない。
厚生村駅は跡形もなくなった。


1964.5.7
画質が悪く見づらいが、一橋大学駅、小平学園駅ともに変化は見られない。


1966.11.3
一橋大学駅と小平学園駅との間に一橋学園駅が開設された。
一橋学園駅の南に2両編成の列車が確認できる。
一橋学園駅の北側ポイントはちょうど小平学園駅ホーム横に位置し、
南側ポイントは一橋大学駅構内に位置している。


1968.5.9
一橋大学駅の駅舎跡地が空き地となった。
小平学園駅も同様に取り壊され、三角形の空き地となった。


1971.4.25
一橋大学駅跡地に建物が建ち並び始めた。
小平学園駅跡地にも建物が建った。


1975.1.20
一橋大学駅、小平学園駅跡地は建物で埋まった。
一橋大学駅構内の北側のポイントは安全側線として再利用されていることが確認できる。
一橋大学駅構内の東側の線路はそのまま残されている。


1979.12.9
1975年から大きな変化は見られない。


1984.10.26
1979年から大きな変化は見られない。


1989.10.18
1984年から大きな変化は見られない。


1992.10.10
1989年から大きな変化は見られない。


2001.11.14
1992年から大きな変化は見られない。
ホームの屋根が南北に延長された。(白く見える部分)


2008.5.21
2001年から大きな変化は見られない。


現在でも旧一橋大学駅付近には側線が残されており、
一橋大学へ続く道路は特徴的な形のままである。
小平学園駅、厚生村駅については跡形もなく消えてしまった。

航空写真は国土地理院ウェブサイトを出典とし、加工して作成した。

次回は変化の少ない青梅街道駅を飛ばし、萩山駅、小平駅を見ていく。
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