忍者ブログ
多摩中心に活動する管理人の撮影ブログ。(since 2007.4.1) 2020年からは西日本に移動。
引き続き航空写真のお話。今回は国分寺駅。
国分寺は古い挿絵もあるのでそれも含めて駅の変遷を追います。
なかなか長くなりました。

国分寺駅の歴史は以下の通り。Wikipediaより。

1889.04.11 甲武鉄道(現JR中央本線)新宿-立川間開通とともに国分寺駅開業
1894.12.21 川越鉄道(現西武国分寺線)国分寺-久米川(仮)間開業
1910.xx.xx 東京砂利鉄道専用線(旧国鉄下河原線)国分寺-下河原間開業
1928.04.06 多摩湖鉄道(現西武多摩湖線)国分寺-萩山間開業
1973.04.01 武蔵野線開業に伴い下河原線国分寺-北府中間廃止
1976.09.01 貨物取り扱い廃止
1984.02.01 荷物取り扱い廃止
1986.xx.xx 駅改良工事着工
1988.12.01 JRホーム2面4線化、橋上駅舎完成
1989.03.01 駅ビル竣工
1990.06.24 西武多摩湖線ホーム移設完了
2015.07.01 北口地区再開発事業着手

航空写真を撮影したのが1941年から2008年であるため、駅改良工事の一連の変化が最大の見所。
古い挿絵や写真もあるので、まずはそれらを見ていく。

★甲武鉄道(中央線)が最初に開業したのになぜ川越鉄道(国分寺線)が駅本屋を奪取したのか?
これに焦点を当ててみる。

甲武鉄道国分寺停車場(「甲武鉄道もより名所案内」1891年 国立公文書所蔵より)

1889年開業時、国分寺駅が1面1線であった事は上記の絵より明らかである。
また、1907年の地図(「地図で見る多摩の変遷」より)で国分寺駅へ通じる道は北側のみであることから
上記の絵に描かれた駅舎は線路の北側にあり、絵自体は立川方面を眺めたものと考えられる。
なお上記の絵が描かれた時点では川越鉄道は開通していない。

川越鉄道は1894年に開通するが、甲武鉄道の子会社として直通運転を行うなど、貨物と旅客が乗り入れていた。
つまり、上記の1面1線の状態から川越鉄道の敷設によってホームや側線が増設されたはずである。
増設を考えると、スペースの空いている駅本屋の反対側に増設するのが自然だ。
となると、ホームや側線は南側に設置される。
川越鉄道は北側に分岐する路線であるから、甲武鉄道と交差しないためには北側のホームを使うこととなり、駅本屋側のホームが川越鉄道用、増設された南側のホームが甲武鉄道用となったのではないか、と考えられる。

ちなみに現在の国分寺線の線路上から東西に直線を引くと、東西とも500 m程先では中央本線の線路にほぼ重なる。
1889年開通時、わざわざ線路を曲げる必要性は無く、上記の絵のように直線的に敷設されたことを考えると、やはり現在の国分寺線の位置に甲武鉄道の線路が存在していたと考えられる。


花見客と国分寺駅北口改札口挿絵(「風俗画報 337号」表紙絵 1906年)

駅舎は北側に存在するので、この挿絵は立川方面を眺めたものであると考えられる。
1906年時点での挿絵では跨線橋が確認できる。1906年には甲武鉄道のホームが南側に増設されていたと考えられる。
ということはホームに停車中の客車は川越鉄道の客車と考えられるが、流石にこれは実際の様子では無いだろう。
東京府統計によると、1905年の国分寺駅の平均乗車人数は甲武鉄道が217人/日、川越鉄道が48人/日である。
甲武鉄道は1906.10に国有化されたため、それ以前であれば川越鉄道のホームに新宿方面からの直通列車が停車していた可能性も考えられるが、やはりこのように満員になっていたとは考えにくい。
風俗画報337号は小金井名所図会の特集号であったことから、このような絵柄になったと考えられる。

次に、国分寺駅のWikipediaに掲載された1915年の写真がこちら(Wikipediaをリンク)である。
1941年の航空写真では跨線橋は1つしか確認できなかった。
跨線橋の数が減るとは考えにくいから、1915年においても跨線橋は1つのみ存在しており、
1906年の挿絵にある跨線橋が撮影場所と考えられる。

挿絵中の跨線橋の位置から撮影して背景にホームが写っていないということは、東京方面ではなく立川方面を跨線橋から撮影したと考えられる。
奥側には側線が見られ、やはり南側に側線が増設されていたと考えられる。
1910年には下河原線も開業し、貨物ヤードが必要となっていたのだろう。


航空写真に戻る。

1941.7
大量の側線を持つ国分寺駅。出入口は北側にしかなかった。
JRは1面2線、西武鉄道川越線(国分寺線)は1面1線で駅本屋が付設している。
この流れは上述した通り。
さらに武蔵野鉄道多摩湖線は北側に接続している。1面2線のように見える。


1947.10
1941年からあまり変化は見られない。


1957.10
1947年から大きく変化。南口が開設(工事中?)され、跨線橋が2つに増えた。
周囲も畑から住宅地に変貌した。


1961.09
1957年では確認できなかった下河原線用の4・5番ホームが設置され、南口とつながった。


1968.05
北西の西武国分寺線が白い。1968.11の恋ヶ窪-羽根沢(信)間の複線化に向けた工事のためか。


1974.12
北西の西武国分寺線が複線化し、羽根沢(信)が確認できる。
多摩湖線の南側ホームに3両編成(351系?)が停車中。


1979.11
多摩湖線ホーム南側に3両編成が停車中。線路跡を見ると、ホーム北側は既に使用されていなさそう。
国分寺線を走る4両編成も確認できる。
1974年までは側線に貨車が見られたが、1976年に貨物取り扱いが廃止されたため全く見られなくなった。


1984.10
多摩湖線ホーム南側に3両編成が停車中。
国分寺線を走る4両編成も確認できる。
下河原線廃止から10年以上、貨物取り扱い廃止から8年経っても側線が残っている。


1988.02
駅改良工事が進行中。下河原線ホームや側線を取り潰し、駅ビルが建設されている。
また側線の跡地に現1・2番ホーム(高尾行方面)が確認できる。
ただし現3・4番ホームは未完成で旧ホームのように見える。
多摩湖線ホームは未解体。


1989.10
駅ビルが完成。JR側が2面4線となり、現在の形となった。
多摩湖線が仮設ホームに移設され、新ホームの建設が開始した。


1992.10
多摩湖線ホームが新ホームへ移設された。


2001.11


2008.04

1992年以降大きな変化はない。
2015年から北口再開発が本格的に開始したので、それ以降の写真を見るとまた違っただろう。

以上、国分寺駅の変遷を挿絵・写真と航空写真から追った。
航空写真は国土地理院ウェブサイトを出典とし、加工して作成した。

続いて国分寺線と多摩湖線について見ていきたい。
PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
最新コメント
[03/15 まる]
[03/08 常磐東北]
[06/14 まる@管理人]
プロフィール
HN:
まる
撮影機材:

・Nikon D500
・Nikon D80
・Canon PowerShot G7 X
・TAMRON SP 70-200mm F/2.8 Di VC USD G2 (ModelA025)
・AF-S DX NIKKOR 16-80mm f/2.8-4E ED VR
・TAMRON 10-24mm F/3.5-4.5 Di II VC HLD (Model B023)
・AF-S NIKKOR 28mm f/1.8G
・AF-S NIKKOR 50mm f/1.8G
・Velbon El Carmagne 635
・Velbon UT-43
アクセス解析
忍者ブログ [PR]